こんにちは。まだバンコクに滞在しております大崎がお届けします。
日本では雪の予報などが出ているようですが、こちらは毎日暑いです。
さて今回行ったのは、バンコクの観光スポットの一つであるAsiatique The Riverfrontにある、Shabudaというお店。
回転寿司のようなスタイルのしゃぶしゃぶもどきチェーンShabushiと名前が似ていますが、今日行ったところは自分で好きなものを取りにいくいわゆるビュッフェ形式のタイスキのお店。
ちなみにShabushi公式ウェブサイトでは回転寿司的なイメージがこれでもか、という力強さで表現されています。が、今回行ったのはココではなくShabudaです。紛らわしいですね。
自分の好きなものを好きなだけ
このほかにもいろんなお肉や海産物をチルドから好きなだけ持って行くことができますが、痛恨の撮影忘れ。
他にもタイ寿司やデザート、ソフトドリンクコーナーなど、かなり品数豊富。日本の食べ放題焼肉店の鍋版、と思っていただければよいかと思います。
これがホントの一人鍋
これは「鍋、つつこ。」の考える鍋と言えるか?
長くなりましたが、ここから本題です。
先日のメンバー日菜子による[第壱鍋]鍋とは共産主義の一種の発現であるのエントリーでは、「鍋」と称するためには、以下の大きく二つの条件が満たされるべき、と述べられています。
- 食べ物を分け合い、みんなで一緒につつく
- 対等であることの象徴としての「丸」
今回行ったShabudaで提供されているのは果たして鍋といえるのか? という疑問について、上記条件と照らしあわせながら考えてみます。
1. 食べ物を分け合い、みんなで一緒につつく
この条件には必要な要素が複数含まれているので、分解します。
1.1. 食べ物を分け合う
先述のエントリーでは「一人一人が獲ってきた食材を一つの器で煮込み、みんなで分け合います。独占はしません。」と述べられています。
これは「個の成果を全体の成果として集約したあとに平等に分配する」という、ある種共産主義的な構造。
しかし、今回の鍋は自分で取ってきたものは自分だけが食べる、というスタイルであり、すなわち「個の成果は個のもの」である、という個人主義(代わりに取ってきてあげる、味見させてあげるという行為もありますが、それはさておき)。
よって、この条件に今回の鍋はあてはまらないと考えます。
1.2. みんなで一緒につつく
この条件には「個の成果を全の成果に集約する」という過程があることが前提。その前提を先の事由により満たせない以上、そもそも評価をすべきではないのですが、「食べる時間を共有する」という意味で捉えると、辛うじて当てはまるとも言えます。
見方を変えると、個々の独立性は一定レベルで確保しつつ、他者との関わりあいは持ちたいという現代人的な意識がこのスタイルによって表現されていると考えることもできそうです。
2. 対等であることの象徴としての「丸」
これも食の原風景として本質的に捉えると、丸という形状を中心に車座に座ることで「みんな対等・みんな平等」を目指すものですが、そもそも今回の鍋は一人一鍋。周囲との関係性は食の場の共有という点以外では断ち切られているといえます。
物理的な形としての丸は担保していますが、本質的な部分ではこの条件にも合致しないと考えます。
改めて考える、鍋の効用
このように、改めて条件に照らしあわせて検証してみると、これは「鍋、つつこ。」が考える鍋ではなく、すなわち「鍋らしきもの」という結果になりそうです。
ちなみに今回はバンコクの事業所スタッフとの親睦を深めるための場で、実際に料理は美味しかったですし、店舗スタッフも気持ちの良い接客で、楽しく飲んで酔っ払ってとても有意義な時間を過ごすことができました。
しかしながら、人と人との関係性を深めることへの寄与、対話や会話促進といった部分で「鍋」が特別な役割を果たしたか? と問うと、なかったようにも思います。
今回に限って言えば、別にタイ料理屋でも中華料理屋でもよかったわけです。
と考えると、やはり「一つの大きな鍋をつつく」という行為には特別な効用があるんだなと、改めて考えさせられたように思います。
※色々言いたい放題言ってますが、いろんな具材を楽しんで欲しい、好き嫌いだってあるよね、最近はアレルギーだってあるし、一人一鍋にしたら色々解決できて楽しく鍋が食べられていいじゃない。っていう提供者側の細やかな配慮があって提供されているサービスだとは思っています。はい。
じゃ、日本戻って、鍋、つつこ。
(文責・大崎)
今回つついた鍋
種類: | タイスキ |
店名: | Shabuda |
URL: | 見つかりませんでした |